善と悪。
この相反する概念はいったい何を持って定義付けられるのであろうか。
そもそも、善、即ち正義というものは、数を背景にした多数派の倫理であり、絶対的、或いは普遍的な基準とは成り得ない。
一方から見れば悪となる事象であっても、別の一方から見れば正義と成り得る事も明白であり、善なるものは常に移ろいゆくものなのである。
そんな事は先の大戦、いわゆるきのこの山とたけのこの里にそれぞれがルーツを求めたキノコタケノコ戦争から人類は等しく学び、また習ったはずである。
多数派のタケノコが正義だとは必ずしも成り得ず、他の一方から見ればチョコレートが手に付く、という絶対的な悪こそがタケノコなのである。
学んでこれを習わんとする。
これ即ち学習である。
少数派から多数派への毀損は悪とされ、その逆は起こり得ない資本主義社会の矛盾に、先の大戦から我々は学習したはずなのである。
かのアインシュタインは、相対性理論を提唱した。
正義とは相対的なものであり絶対的なものではないと、アインシュタインは全然言わなかったが、相対性理論を提唱した。
相対性理論とは何であるかは、学術という行為を完璧に放棄した私には完全に意味不明であるが、害と害悪というものが似て非なるものという事は解することが出来る。
害とは例えば、年末にプロレスラーからビンタを受け、身体へのダメージを受けること等を示すが、ホウセイにとってこの事象は害悪と成り得ても、ワカテゲイニンにとってはオイシイと成る。
況や、害が直ちに害悪へと変容するという理論は、あたかも漫才師がハンバーグ師匠へ変容するか如く、無理を生ずる。
まして、その害たる事象が人為的なものによらず、自然発生的に起きた場合などは、害悪なるものは存在しようがないのである。
では人為的事象と自然発生との境界はどこに存在するのか、というと、それは単に人間が起こしたかどうか、という一点のみを持ってして論議されるべきであろう筈がない。
何故なら、人類というものは自然界に存在する生命の一つに過ぎず、犬や牛や草木、その他メダカやトンボ、長渕と何ら変わらぬ一個体なのである。
たまさか、火と言葉を操る機会に恵まれただけの存在である人類が、この世の頂点に君臨するなどの考えは完全なる奢りである。
つまり、長渕と草木は同列に並べて然るべきなのである。
従って、長渕と同種である人類は、草木とほとんど同義であるので、明らかな故意を持って行った事象を除き、例え人間が起こした事象であっても、それは草木が起こした事となんら遜色の無い自然発生と定義する事が出来る。
しかも、前を進む者にならい後者が追随するという行為は自然界における摂理であるため、この事象を止めるという事は、人類による自然界への反逆行為である。
それは有機物、無機物に関わらず、勿論気体から固体、または液体への事案であっても同等である。
かつてアダムとイブが、神、ひいては自然界そのものに逆らい、禁断の果実を食すという暴挙を犯した。
その結果、後に残された人類は神より与えられし楽園を甘受することなく、飢餓や病に怯える事となった。
これは決して哲学的な話ではない。
自然界の摂理、或いは生理的現象に背くと、人類を含めたあらゆる個体は長期に渡り苦慮する、という極めて科学的なアンチテーゼなのである。
ここから考察される答えは一つ。
つまり、他者への配慮を優先する事が人間の人間たる所以であるが、その配慮も自然界の生理的現象に対しては必ずしも優先しなくとも良いということである。
そんな、うんこを漏らした時の言い訳の話。