ここで会ったが木曜日

木曜日は『木曜日の話』月曜日は『月曜日の辞書』

森猛 伊亮

森猛 伊亮
中学校卒業後、不動産屋や大工、果ては証券屋やボーイなど様々な経験をつみながら、デンジャラスかつクレイジーな生活を経て、2013年より独立。

詳しいプロフィールはこちら

球数制限の話

f:id:kokomokumoritake:20190717155844j:plain

【この記事は約7分で読めます】

 

 

 

ちょっとひいている。

いや、結構ひいている。

 

今年の巨人が強すぎてひいている。

 

パッキパキの巨人ファンである私にとって、贔屓の球団が強いという事は、もちろん大変喜ばしい事であるのだが、ちと強すぎる。

 

去年までの三年間、由伸監督時代には優勝どころか球団記録の十三連敗を喫するなど、お世話にも強いと言えなかったチームが、急に強くなってブッチギリの首位をひた走る姿を見て戸惑っている。

 

何も出来ないが可愛かった新人営業マンが、年度明けから急にガンガン契約を取り始めたあの感じ。

 

付き合っていた頃は、大学進学の為に上京直後で右も左もわからず薄化粧でおぼこかったあの娘が、別れた後丸の内OLになって六本木のクラブで踊りまくっているあの感じ。

 

本人にとっては適応力の成長であるので大変喜ばしい事であるが、応援している方としては、自分が応援しなくても強くなっている姿を見て『お、おう、、、』となる。

 

とはいえ、自分の贔屓球団が勝つのはやっぱり嬉しいので、私は毎日ご機嫌で過ごしている。

 

 

 

さて、セリーグは巨人、パリーグはソフトバンクがブッチギリの状態でオールスターも終え、何となく勝負あった感が漂ってきたプロ野球であるが、今年も野球ファンにとっての一大イベントが間も無く始まる。

 

第101回全国高校野球選手権大会。

夏の甲子園が8月6日から始まる。

 

というか、全国各地では予選がとっくに始まっているので、現時点で夏が終わってしまった球児達もたくさんいる。

 

春の王者東邦が愛知県大会二回戦に、コールド負けで姿を消すなど、やってる方からするとたまったもんでは無いが、観てる方からすると、スリリング、かつドラマチックな夏がもうすでに始まっている。

 

プロ野球のペナントレースが物語をじっくり楽しむ長編小説であるとするなら、高校野球の一発勝負トーナメント方式は、まるで流れた側から消えてゆく一曲の音楽の様で、どちらにも違う魅力があり、どちらも目が離せない。

 

野球ファンとしては毎年、甲子園開催時期は朝から夕方まで高校野球を追い、夜になればプロ野球を観なければならないので、休日なんぞ一日中家から出ずにテレビで野球観戦をし、気がつけば一日が終わっているなんて事もざらにある。

 

ほとんど引きこもりで、日常生活に支障をきたすレベルである。

 

だが、毎日の楽しみが増えると思うとやっぱり嬉しいので、私はこの時期毎年ご機嫌である。

 

 

 

そんな野球漬けご機嫌おじさんの私であるが、毎年この時期に巻き起こる議論に違和感を覚えている。

 

今回のテーマ『球数制限』についてである。

 

毎年の恒例行事の様になってきたこの議論であるが、今年は例年とちと様子が違い、甲子園終了後、更に大きな議論を巻き起こしそうな雰囲気である。

 

 

 

まず今年の春、熱心な高校野球ファンの間には衝撃が走った。

 

新潟県の春季公式大会で、ついに球数制限が導入されたからである。

 

甲子園などの全国大会には直接結びつかない、あくまでも新潟県内だけの大会であるが、れっきとした公式戦トーナメントである。

 

新潟県の高野連の方々としては、現時点では高校生の身体に配慮するにはこの方法しか無かったと思われるので、英断を下されたのだと思う。

 

しかしその一方で、球数制限自体に対しては正直『バッカじゃねーの?』と思う。

 

意味がわからない。

 

ほとんど意味の無い、選手置き去りの措置であると思う。

 

その理由は大きく分けて三つ。

 

 

 

まず一つ目は、色々と不公平である。

 

毎年議論される中で、球数制限反対派の意見の一つに、部員が多く、投手が多い高校が有利で、部員の少ない高校が不利になると言う不公平。

 

この不公平については、色々なところで話されているので今更どうこうは言わない。

 

私が言いたいのは、投手・野手や試合・練習の不公平である。

 

大体この種の議論は、投手の試合中の『球数』だけが注目される。

 

件の新潟県大会では、投手が1試合で投げて良いのは100球までとされた。

 

野球は投手だけがするものではないし、故障するのは肘や肩だけでは無い。

 

三年生で初めて投手になり、初登板の投手の肩と、一年生からレギュラーで試合に出続けた捕手の膝ではどちらが消耗しているであろうか。

 

選手を守るという観点で投手に制限を加えるのであれば、当然野手にも制限を加えて然るべきである。

 

更に、試合だけで制限を加えるのも全く不公平であり、それであれば練習の時の球数も制限しなければならない。

 

試合で百球しか投げなくとも、練習で一万球投げていれば全く意味が無いのである。

 

 

 

二つ目の理由は、選手の身体を全然本気で心配していないのではないかと思う。

 

早い話が、本気で選手の身体を心配するのなら、日程や球場を変えろという話である。

 

過密日程は言わずもがな、キチキチの間隔で試合をせずに少なくとも中四日開ければ済む話である。

 

その為にも少なくとも全国大会は、甲子園では無くドーム球場でやるべきである。

 

雨天中止の順延も無くなり、予定通り試合は組めるし、真夏のクソ暑いグラウンドよりは、絶対怪我も少なくなる。

 

身体の強さも投げ方も違う個々の選手達の球数を一律に制限するよりよっぽど有用であり、選手の身体第一とするのなら、伝統よりも最新を取るべきである。

 

 

 

そして、最大の理由が三つ目。

 

そもそも、当の選手達が望んでいるのかという事である。

 

今回、当記事を書くにあたり、私は残念ながら甲子園出場はおろか、多少の少年野球経験しかないので、甲子園に出場した事のある、友人・知人に色々と取材して回ったのだが、当の本人達から話を聞くと、色々な本音が垣間見えた。

 

まず、この手の議論の前提として、球数制限推進派は導入する理由として『球界の宝、引いては日本の宝を潰すな!』という意見が散見される。

 

ちょっと待てと。

何を勝手な事を言っているんだスットコドッコイと思う。

 

彼らは、彼らの肩や肘は、現時点では彼ら自身の宝物であって、鉄道会社や新聞社、ましてや日本の物では決して無い。

 

自分の身体をどう使おうと、自分の勝手なのである。

 

自分の将来の為にマウンドを降りるのも、今目の前の試合に勝つ為に投げ続けるのも、選手の勝手である。

 

『判断能力が未熟な子供達は大人達が守ってやらなきゃいけない』と言う方もいらっしゃるであろうが、ここは日本である。

 

女子であれば十六歳で結婚も可能であり、十八歳になれば男女問わず選挙権まで与えられる。

 

立派な大人なはずである。

それを子供扱いするのであれば、この国は自分の未来も判断出来ない子供に、国の未来を選択させるクレイジーな国家という事になる。

 

本人の意に反して『投げろ』と強要するのは全くもって言語道断であるが、本人が投げたいと言い、監督が投げさせた方が勝利に近づくと判断すれば投げさせるべきなのである。

 

しかも、高校球児全員が日本の宝どころか、プロ野球選手を目指している訳では無い。

もっと言うと、なりたいと言ってなれるものでもない。

 

高校卒業後、進学や就職を目指して野球を辞める子もいれば、甲子園で投げ続けることによって注目を集めて、やっとこさプロになれる選手もいるだろう。

 

そんな選手達は、腕がちぎれたってみんなと勝ち進みたいのである。

 

 

 

更に言うと、この『球数制限』は将来的な選手の価値まで阻害する事もあるんじゃないかとも思う。

 

例えば去年の夏、甲子園にスーパースターが誕生した。

 

現日ハムの吉田輝星選手である。

 

彼は去年の夏、甲子園だけで881球、地方大会から数えて1527球という、極めてクレイジーな球数を投げた。

 

プロ野球選手が七ヶ月かけて投げる球が、多くて3000球程、それにしたって3000球超えは年に一人か二人で、ほとんどが2500球以下になるので、かなり稀有な存在である。

 

それと比べても、わずか一ヶ月程で1500球以上投げる事がどれだけ異常かということが良くわかる。

 

しかし、もしも去年の夏、球数制限が導入されていたら彼はスーパースターとなっていただろうか。

 

彼は甲子園一回戦、鹿児島実業戦に先発し、見事完投勝利を収めた。

 

試合終了時の球数は157球であった。

6回を終えた時点での球数は99球。

 

去年の時点で100球制限が導入されていれば、彼は6回でマウンドを降りた事になる。

 

残り3イニング、もし後続の投手が打たれて逆転を許していたなら、金足農業は一回戦敗退していた。

 

ということは、その後繰り広げられた『地方の公立高校エースが満身創痍で全試合を投げ抜き、絶対王者が待つ決勝戦に辿り着くが、力尽き敗戦する』といった漫画でもやり過ぎやろ!というストーリーは生まれていなかった事になる。

 

そういったストーリーが無かった時、彼は野球ファンの垣根を超えた国民的スターになっていただろうか。

 

決勝戦、田中のマー君との引き分け再試合を投げ抜きハンカチ王子となった彼。

 

PL学園との準々決勝延長17回の激闘を、250球完投勝利で飾り、準決勝ではリリーフ登板、決勝戦でノーヒットノーランをかまし、毎年の様に出てくる怪物の中から『平成の怪物』となった彼。

 

彼らが甲子園で投げた球数はそれぞれ948球と767球。

 

彼達の時代にもし球数制限があれば、スターになっていなかったかも知れない。

 

もちろん『もしも』の話である。

 

もしも彼らが甲子園に出場せず、消耗していない状態でプロ野球選手になっていれば、メジャーで300勝して今よりもスーパースターになっていたかも知れない。

 

だが逆に、あの夏の伝説が無ければ、今頃お茶のCMになんか出ていなかったかも知れないし、北の大地でひっそりと戦力外になっていたかも知れない。

 

スポーツ選手とは、ファンとストーリーを共有することにより、価値がどんどん上がっていく。

 

柔道の野村選手がアトランタ五輪で金メダルを獲得した日の一面は、日本中が金メダルを確信していた、ヤワラちゃんのまさかの銀メダルであった。

 

野村選手には大変気の毒であるが、悲しいかなスポーツ選手とはそういうものである。

 

 

 

語弊の無い様にもう一度言うが、私は何も自身が面白いストーリーが観たいが為にこういった事を言っている訳では無い。

 

選手自身が自らの意思で、将来を見据えて投げないという選択を取るのはもちろん懸命な判断だと思う。

 

しかし、自らの腕を必死に振り続ける事により夢を掴もうとする努力や、仲間達と勝ち進もうとする姿を、頼みもしないのに周りが勝手に止めてはいけないと思うのである。

 

 

 

選手の身体第一優先という考えは、もちろんわかる。

 

本気で考えるのであれば、試合中の球数制限なんぞと言わず、大会日程も球場も変えて、練習中の球数制限や野手の制限もしなければならない。

もっと言うと、中学野球の様に七回までだって良いではないか。

 

しかし、形だけ、体裁だけを整える為に、よくわからん『球数制限』などをして球児達の希望に沿わないのであれば、せんほうがマシであると私は思う。

 

 

そんな、誰の為かわからん働き方改革みたいな話。