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森猛 伊亮

森猛 伊亮
中学校卒業後、不動産屋や大工、果ては証券屋やボーイなど様々な経験をつみながら、デンジャラスかつクレイジーな生活を経て、2013年より独立。

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思い出補正の話

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令和という時代が始まって一ヵ月ちょっと過ぎた。

 

随分と前の事の様に感じるが、よく考えるとつい先月の話である。

 

始まる前後のなんだかよく分からないお祭り騒ぎはすっかり終息して、新元号も違和感なく使用されており、勢いで買った『令和マグカップ』なるものも今では邪魔で仕方が無い。

 

テンションでものを買うとロクな事にはならない。

 

 

 

さて、私の衝動買い癖は置いておいて本題に入ると、今月に入ってからはめっきり無くなったが、新時代突入前後のお祭り騒ぎ中、各テレビ局は競う様に特集を組んだ。

 

『平成を振り返ろう特集』というヤツである。

 

ほとんどの番組の大まかな内容はどれも同じであり、冒頭に小渕さんが平成元号を掲げる映像が流れ、バブル期を迎える。

 

その後、阪神・淡路大震災、オウム事件、たまごっちブームなどの二十世紀の出来事を挟んで新世紀に突入し、9.11アメリカ同時多発テロ、東日本大震災、スマホの普及へと進行していき、最後はAI時代の幕開けを予感させて番組が終わる。

 

司会や出演者が違うだけで、毎日、毎時間デジャヴかと思うくらい同じ内容であった。

 

そして、見終わった後にこう思う。

 

『色々大変な事もあったけど、平成ってええ時代やったな』と。

 

 

 

自分自身にビックリポンである。

 

四年振りにビックリポンと言う位びっくりした。

 

極めてクレイジーかつファンタスティックな家庭で生まれ育だった私は、十三歳で家を飛び出した後も、なかなかエキセントリックな人生を送った。

 

多少の浮き上がる時期があったにせよトータルでみると、つい四年位前まで飯を食うのにも困る時期の方が多かったはずである。

 

それはそれはキツかった。

 

七年程前に、恩人のとあるジジィと家内に立て続けに出逢っていなければ、多分のたれ死んでたんじゃねえかと思う程キツかった。

 

という事は、客観的に見ると私にとって平成という時代は、少なくとも二十四年目位までは、どう考えてみたって金銭的にも精神的にも良い時代では無さそうである。

 

しかし、私は『平成振り返り特集』を観て、平成は良い時代だったと感じている。

 

これは不可思議である。

 

 

 

もっと言うと、昔は良かったと嘆く世のおじさん達。

 

あれも不可思議である。

 

好き嫌いの話は置いておいて、『良い悪い』の話だけだと、どう考えても過去が現在を上回る事は無い。

 

例えばテレビ。

 

先日、地方のうらびれたホテルに宿泊した時、久方ぶりにブラウン菅のテレビを発見した。

 

無理矢理チューナーをブっ刺して地デジを受信していたが、現在のテレビを見慣れていると、画像の粗さに加えて、あのなんとも言えない画面の丸みせいで見にくくて仕方が無かった。

 

そして、良くなっているのは決してハード面だけでは無い。

 

最近のテレビは面白く無くなったと言われ始めて久しいが、それは好き嫌いの問題である。

 

テレビを観ている人全員にとって、悪いと思われるものを少しずつ排除していった結果が今放映されているテレビ番組な訳であって、『良い悪い』でいうと『悪い』が減った分みんなにとって良くなっているはずである。

 

一事が万事、地球に住む七十六億人の人類が知恵を振り絞って、今日より明日を良くしようと頑張っている限り、いつだって今が最高な訳で、過去が現在より良いはずが無いのである。

 

 

 

という事は、私もおじさん達も『良くなかったもの』を良いと認識している事になる。

 

いわゆる『思い出補正』というやつである。

 

なぜこんな事が起こるのか。

 

その理由を全力で考察してみた。

 

専門家といわれる人達とは大幅に見解が異なるが、多分当たっていると思う。

 

 

 

まず、心理カウンセラーなどの専門家の先生方曰く、昔は良かったと感ずるいわゆる『思い出補正』というものが発生するのは、人間の本能が関係するとの事である。

 

人間の脳は良く出来ていて、自分の身を守る為に不必要な嫌な思い出や、辛かった記憶は極力思い出さない様に制御がかかるらしい。

 

それに加えて、今の時代を褒めてしまうと自分達が生きた時代が否定された気分になるので、自分達が生きた時代を肯定する為に思い出補正を行うとの事である。

 

言っている意味は良く解るし、なんとなく正しい気もする。

 

というか、偉い先生方が揃って提唱されている説なので正しいはずなのだが、全然しっくりこないので、先生方には悪いが私はあえて全く違う説を提唱したい。

 

多分、画期的な説であると思う。

 

 

 

題して『いつだって最高説』とする。

 

出っ歯のお笑い怪獣さんの言葉を丸パクりして『生きてるだけで丸儲け説』と言っても良い。

 

そもそも人間というものは、生きてそこにいるだけで奇跡的な事である。

 

これはもう本当に凄い。

 

少なくとも当サイトに訪問して、当稿を読んでいる私もあなたも、何億、あるいは何兆分の一かの確率を潜り抜けてこの世に生まれ落ちた。

 

ラッキーである。

 

しかもその後、奇跡的に病死する事もなく、死ぬほどの事故にも天災にも見舞わられず、万一自殺するほど何か追い詰められた事があったとしても実行に移さずに、こうしてよくわからない兄ちゃんの、よくわからないエッセイの様なものを読んでいる。

 

超ラッキーである。

 

が、普段はこの様な超絶ラッキーが余りにも普通にそこにあるので、普通に息をして、普通に心臓が動いている奇跡を改めて実感する事が無くなっている。

 

その実感の無い中で、嫌いな上司に理不尽ノルマを乗せられたり、喧嘩手形を掴まされたり、インスタントラーメンも買えぬ程金が無くなって腹が減ると嫌な気分になる。

 

だが、実はそんな嫌な出来事は普通に生きている奇跡に比べると屁でも無い些細な出来事である。

 

その為振り返ってみると、その時起きた嫌な出来事より、普通に生きている奇跡の喜びが大きい事に気づき『良い時代だった』や『昔は良かった』となるのではなかろうか。

 

明日はもしかしたら死ぬかも知らんが、昨日は絶対に生きていた。

 

その事実が『思い出補正』と呼ばれるものの根元ではなかろうか。

 

 

 

昨日私は休日だったので、家内と買い物に出かけた。

 

靴下とパンツを買い、昼食は中華料理店でとり、夜はテレビで野球を観ながらチャンコ鍋を食べた。

 

それ以上でもそれ以下でも無い、至って普通の一日であった。

 

普通に生きる事が出来た。

 

明日は死ぬかも知らんが、とりあえず今は生きている。

 

最高である。

これ以上の喜びは無い。

 

ごめん。

言い過ぎた。

 

最高では無いかも知らんが、大変喜ばしい事である。

 

が、もしも今日、とんでも無く嫌な事があったとしても、いつかはあの日も良い日だったねと言う日が来ると思う。

 

ただそれは、決して『思い出補正』などでは無い。

 

補正するまでも無く、昨日も今日も来年も、そこにいるだけで実はいつだって最高に喜ばしい日だから、なのだと思う。

 

 

そんな、虎舞竜みたいな話。