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森猛 伊亮

森猛 伊亮
中学校卒業後、不動産屋や大工、果ては証券屋やボーイなど様々な経験をつみながら、デンジャラスかつクレイジーな生活を経て、2013年より独立。

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地主の話

f:id:kokomokumoritake:20190528121333j:plain【この記事は約12分で読めます・約4900字】




痔主になった。

 

 

私の友人は子供の頃からのたゆまぬ努力の末、30代にしてしこたま不動産を取得し大地主になったが、私は子供の頃からたゆみっぱなしであったので大痔主になった。




事の顛末はこうである。

 

私はよく働いた。


どれくらい働いたかというと、死ぬほどよく働いた。

 

元を正せば。


私の父は、私が四歳の時、二歳の妹と母を置いて愛人と駆け落ちした大変ファンタスティックな人物であった。

 

TBS愛の劇場であれば、その後親子三人手を取り合い、仲睦まじく生きていくことになるのだが、話はそんなに上手くはいかない。


なんと母は、私が知っているだけでも苗字が五回程かわる父以上のファンタジスタであった。

 

一方、息子の私は中々エキセントリックな少年に仕上がっていたので、数人の父、及び多数の父候補は、ほぼ全員が愛の劇場より飛び出てきたかの様な善人であり、大変良くしてくれる方々ばかりであったが、一部を除き一方的に拒絶した。

 

尚、唯一の常識人であった妹は、誠にかわいそうな少女であった。

 

ファンタジスタの母と、エキセントリックな息子はことごとく反りが合わず、更にお互いが、相手が悪で己に正義があると信じており、必然的にパキスタンとバングラデシュの如く仲が悪かったので、歴史は常に繰返すの法則に則り、息子は独立戦争の末に中学二年で家を出た。

 

一般的にこの様な出来事を思春期の家出という。


作法通りに事を進めると概ね二週間。

長くても一ヶ月程で住居の確保困難、捜索願いが出され警察に補導、或いは学校経由で家に帰る運びになるのだが、私の場合はちと様子が違った。

 

住居に関しては、仏様の様な親戚夫婦、善人の元父親、悪友などなど、頼れるところは案外多かったし、元々出て行けと言われているので、まさか捜索願いが出されるはずはなく、担任の先生は大変理解のある方で、特別とやかく言われる事も無かったので、私はすこぶる快適に過ごすことになる。


この生活には一つだけ問題があり、私がいくらツラの皮が厚くても、相手がいくら良い人であっても、長期間他人が一つ屋根の下で過ごすと関係がおかしくなる。


なので私は概ね二週間前後で色んなお家を渡り歩く、渡り鳥戦法を編み出し、益々快適に過ごした。




そんな渡り鳥生活が半年程続いた後、私は突如美しきインテリOLと恋に落ちる。

 

彼女はおそらくマザーテレサの生まれ変わりであったらしく、住むのも食うのも、果ては小遣い銭まで世話してくれた。


かくして私は二週間に一度の面倒な引越しからも解放され、完璧な生活を手に入れたのだが、私は完璧にヒモであった。


いくら楽園の様な環境でも、愛する女があくせく働いた金で作られたものだと考えると私の美的感覚に反する。


かといって中学生を求人しているところがあるはずも無く、そもそも労働契約自体が違法であるので私はすこぶる困っていた。 

 

そんな折、近所の新聞屋に新聞配達の求人広告が貼ってあり、店先に、従業員とおぼしきおばさんがいたので一応声をかけてみた。 


働きたいと懇願する。

もちろん中学生は対象外であった。

 

しかし、このおばさんの息子が大工さんであり、最近独立して一人親方になり雑用をするバイトを探してるというので、その場で頼み込み、その日のうちに親方を紹介してもらった。


今考えると何も出来ない中学生など全く不必要であったはずなのだが、実は楽園在住の幸福な少年を、大変不憫な少年と勘違いしたらしく、すぐに手伝いにこいという事に相成った。


但し、従業員とすると話がややこしくなるので、休日知り合いのお兄さんちに〝お手伝い″にいき、月末に〝お小遣い″をもらう事になった。




私にとって初めての労働らしきものは楽しすぎた。


私は学問に全く興味を示すことはなく、授業中はお昼寝の時間であり、この頃になるとそもそも登校すらまともにしていなかったので大変暇であった。


が、お手伝いの日は興味津々な事が絶え間なくあるのですこぶる楽しい。


更に、仕事をしているとの錯覚を起こしているので大人になった気分になり、今までの人生はずーっと人の厄介者だったので、少しでも人の為になっている気分になった。


更に更に、月末には過分のお小遣いまでもらえるのでそれはそれは楽しかった。

 

中学卒業まで心優しき親方の下、楽しすぎる労働体験をさせてもらった私は定時制高校に進学した。




この時より合法的に仕事が出来る様になり、私は死ぬほど仕事をする事になる。

 

まず、親方のお母さんの勤める新聞屋で朝2時頃から新聞紙に広告を挟み、自転車で新聞を配る。


大体5時までには配り終えるので、配り終えたその足で、コンビニおにぎりの工場へ行き6時から9時までおにぎりを製造する。


その後10時より中華料理店の店内清掃、及びランチタイムのホール業務を13時半まで行う。

終わった瞬間賄いを掻き込み、新聞屋に戻り14時半より夕刊を配り、17時半に始まる学校に駆け込んで、21時まで机で眠りこけた。

 

労働体験ではなく労働をしているので、本当に人の為になった対価にお給料をもらい、しかもそれはお小遣いではないので、働けば働く程増えていく。少しずつだが、人と触れる度に大人になっていき、体験時代より益々仕事が楽しくなった。


で、高校一年が終わる頃、学校は金がかかるが仕事は金が貰えるという至極安易な発想で、引き止める友、先生を無視し学校を退学して、空いた時間にも仕事をした。

 

この時点で、厚生労働省辺りが定めたらしい、〝過労死ライン″とやらを大幅に超えていたので、死ぬほど働いたと言っても差支えなかろう。

 

その後も私は、不動産会社勤務兼、八百屋の兄ちゃん兼、寿司職人であったり、証券会社勤務兼、夜のボーイの兄ちゃんであったりした。


たとえ一つの会社に勤めて上司に働きすぎを叱られても、笑ってごまかすか、内緒でこっそり残業をしたり休日に仕事をする。


独立して社長とやらになると、上司に変わり妻に叱られる事になったので、内緒にする訳にはいかなくなったが、やっぱり笑ってごまかした。

 

その為、ほんの最近までこのラインを下回った事がなかった。


国の定めたラインらしいので間違いは無いのであろうが、どうやら絶対的なものではなく、相対的なものらしく、私の体は大変頑丈に出来ているので死ぬどころか、ものすげぇ元気である。




しかし、どれだけ頑丈でも死ぬほど働くと多少は負担がくるらしい。


10代〜20歳までは全く一年中元気であったが、21歳の年に変化が始まった。

 

その年も別段何も無く、仕事をしている時はものすげぇ元気であった。

だがその年の年末、仕事納めの翌日に高熱を出した。


流行のインフルエンザだと思い病院に行くと、検査の結果陰性だと言われ栄養剤の点滴を打たれた。


その後微熱が続いたが、仕事初めの前日にケロッと治り、またものすげぇ元気になった。

 

以後、この『普段元気だが年末に高熱出る病』は三年連続発症する。


流石に三回も同じ事をするとこちらも身構えるので四年目は十一月下旬より養生し、十二月の忘年会ラッシュも多少控え、万全の体制で仕事納めの日を迎えた。

 

翌日、何故か右耳が聞こえなくなった。

 

直ぐに耳鼻科に行ったが、原因不明という一番怖い診断結果が出て私は大変パニクったが仕事初めの前日に、何故かは知らんが突然治った。

 

その後も頭痛、歯痛、乳首のシコリなど様々な症状が毎年出て来るのだが、その度に仕事納めの日に向けて養生の他に頭痛薬の服用、歯の検診、乳首のマッサージなど対策は年を追うごとに増えていった。


この年末行事はとても鬱陶しい。


反面、今年はどこにくるかというワクワク感、及び今年こそは完璧に対処してやるぞという対決感から私の密かな愉しみでもあった。




そして。


28歳年末に右の金玉が腫れたのを最後に、全く症状が出なくなった。


私対私の体の対決は、八年の抗争の末に、私の完全勝利で幕を閉じた。

 

と、三年間は思っていた。

 

29.30.31歳の年末は油断する事なく、養生し、薬を飲み、歯医者に行った。


32歳の年末も乳首マッサージをし、もちろん金玉も常に清潔にしていた。 


しかし三年間何も無かったという自信から、多少の油断をし、養生せずに死ぬほど働いた。

 

三年間復讐の機会をじっと待ち、力を蓄え続けた私の体は、その油断を見逃さなかった。




仕事納めの翌日。


何か体に違和感があった。

しかし違和感の正体は全くわからないので、過去の年末のトラウマからくる考え過ぎであろうと思い年末年始の買出しに行った。


その翌日。

明らかにケツに違和感がある。

しかしながら、痛みもなければ見た目も何も変わらない、いつも通りの見事なケツであったので大掃除をした。


翌日。

ケツが痛え。

私はものすげぇ元気だが良くお腹をこわす。

で、お腹を下す度に肛門付近が擦れる事があり多少の痛みを感じる事がある。


今回もその類であろうと思い、犬の散歩の後、一日中ダラダラしたが、後から考えるとその日お腹は下して無かった。




翌日の朝。

遂に正恩がブチ切れてテポドンをぶっ放したのだと思い跳ね起きると、自分の肛門が火を噴く様に痛いだけであった。

 

とりあえず日本は平和であったが、私は全然平和ではなかった。

 

皆さん。想像して欲しい。


肛門から火が噴くのである。

物凄く痛い。


更に体の構造上、患部を触る事は出来るので、何かがあるのはわかるのだが、私は雑技団では無いので目視出来ないのである。


物凄く怖い。


未知の物体が肛門で火を噴いている。

ほとんどホラーであった。




その後、恥ずかしいのと怖いので家内には秘密にし、素知らぬ顔で過ごしていたのだが、激しい痛みと、もしかしたら大きな病気かも知らんと言う恐怖から、昼食の後、家内に秘密を打ち明けた。

 

彼女は日頃からよく働く亭主を大変心配してくれた。

 

そして話合いの上、未知の物体の正体を写真で撮影をしようという事に相成った。


それはそれは大変恥ずかしかったが、事態は切迫しているので私は四つん這いになり、肛門を開いた。

 

次の瞬間、、、




彼女は爆笑した。

 

曰く、2センチ程の正体不明の光ったイボがチンマリと座っている様でとても面白いらしい。


その後私も写真を見て爆笑したので気持ちはわかる。

 

しかし、恋い焦がれ30回以上拝み倒した末に嫁になって貰い、何度産まれ変わっても一緒なりたいと心から愛する女に、全開の肛門を見られて爆笑される私の心は、火を噴くケツより確実に痛かった。

 

痛みの原因を目視でき、少しは気が楽になったが、やはり大きな病気であれば怖いので正月明けに病院に行くことにした。




世の中にはこんなにもケツに問題がある人がいるのかと感心するほど病院は混雑していた。


ここにいる全ての人が同じ様な苦悩を抱えているのかと思えば、何だか他人の様な気がせず、普段は大変せっかちで落ち着きがない私も、一時間程おりこうに診察順を待った。

 

診察室に入ると現在の症状などを聞かれ、すぐに診察台に寝かされた。


私は『先生大きな病気じゃないですかね?僕まだやる事がいっぱいあるんで死ぬ訳にはいかんのですよと』と泣きを入れたが、先生は一瞬触ったかと思うと一言だけ呟いた。

 

『いぼ痔じゃ』




こうして私は痔主になった。

 

その後、手術で取るか薬でじっくり直すかの二択を迫られた。


私は悩んだ末、薬治療を選択した上で、このイボに『いぼ爺さん』という名前を授け、共存していく道を選んだ。

 

実はこのいぼ爺さん。


決して悪い奴では無く、とても良い人であった。


私がオーバーワークであったり、塩分過多である時などはそっと出てきて優しく叱ってくれる。


家内やかつての上司達とは違い、まさか笑ってごまかす訳にはいかないので、ここ一年自然と色んなことをセーブ出来る様になった。

 

昔と違い、いや実は昔からあったのだが、あんまり見ない様にしてきた守るべきものが私の周りには沢山ある。


過去に捨てたものはどうしようもないが、今あるものを絶対に守る為に、少なくとも死ぬほど仕事をすることはあまり良い事ではない。

 

仕事は誠に楽しすぎて、私の生き甲斐である。

 

しかし死んでしまっては元も子もないので、今日もいぼ爺さんが出てこない程度に働こうと思う。

  

そんな優しい保護者の話。