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森猛 伊亮

森猛 伊亮
中学校卒業後、不動産屋や大工、果ては証券屋やボーイなど様々な経験をつみながら、デンジャラスかつクレイジーな生活を経て、2013年より独立。

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もしかしたら幸福と不幸は同分量説は本当なのかも知れないと思った話

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ヤベェぞ。
 
これはヤベェ。
 
 
たった今、ピーーーンときた。
 
 
ずっと前から胸につっかえていた物がストンと腑に落ち、私はまるで底を割って卵を立ててみせたコロンブスの気分である。
 
 
物凄ぇスッキリした。
 
 
もしやノーベル的な所から、何かしらの賞でも貰えるんじゃないかしら。
 
あるいは、ピューリッツァー賞でも貰えるんじゃなかろうか。
 
 
写真なんぞ一枚たりとも撮っていないが。
 
 
そんな、一人でよく分からんテンションになる程、今私はテメェの中での大発見をした。
 
しかし、もしかしたらとてつも無く素っ頓狂な事を言っているかも知らんし、世間的には当たり前の事を言っているのかも知らん。
 
だが私と同様の疑問を持ち、尚かつ何となく胸に引っ掛かりがある人もいるやも分からんで、そういう人はまぁ聞いて欲しい。
 
 
 
 
私は長年疑問に思っていた。
 
 
何故多くの人が『人生の幸福と不幸の数は同じだよ』と言うのかを。
 
 
恐らくどんな人も、人生において一度や二度は耳にしたことがあると思う。
 
それは、何か物事が上手くいかなかったり落ち込んだ時に、友や家族に励ましの言葉として送られたのかも知れないし、映画や小説の中で同様の場面で飛び出したセリフやも知らん。
 
で、私は今の今までこういった類の言葉を耳にする度に、『何言ってんだ?』と思っていた。
 
 
そんな訳ねぇだろう、と。
 
 
例えば、お金持ちと貧乏な人であれば前者には幸福の割合が多く、後者には不幸が多くなると考えていた。
 
でもそれは多分間違っていた、と思う。
 
まぁもちろん、幸せなんぞというものは個人の主観で決まる物なので、一文無しの幸せ者もいれば大金持ちの不幸者もいるのだが、私が言いたいのはそういう事ではない。
 
あくまでも分量の割合い。
 
個人の幸福と不幸の割合いは同分量なんじゃねぇか、と思う出来事がつい先ほど起きた。
 
事の顛末は、こうである。
 
 
 
 
遡る事三十分前。
 
私はとある空港内の飲食店にて、ラーメンを食べた。
 
時刻は午前十時。
 
本日は軽い寝坊をカマし、朝食を食べずにホテルを出たので〝少し腹が減っており〟ラーメンを食べる事にした。
 
 
〝少し腹が減った〟ので、ラーメンを食べる事にしたのである。
 
 
凄え。
 
これは大変な快挙である。
 
初めて当サイトに辿り着いた方はご存知無いであろうが、私は中々イレギュラーな半生を送ってきた為、物凄ぇ貧乏な時期とそこそこ金持ちな時期を繰り返して生きてきた。
 
二度のド貧乏期と、二度のそこそこ金持ち期。
 
一度目のド貧乏期は、年収が三十万位であった。
 
 
月収ではない。
 
年収が三十万位であった。
 
 
で、その後リーマンショック前のプチバブルに乗って、プチ金持ちになったのだが、プチバブルの崩壊によって、超貧乏になった。
 
年収が四百万位で、借金の返済が年に五百万ほどという、恐らくニュートンやアインシュタインでも計算不能のよく分からん状態に陥った。
 
この時の貧乏は半端では無く、食う物も食わずの酷い生活であった。
 
 
二百円もするカップラーメンは超高級品。
 
 
八十円の袋麺である〝うまかっちゃん〟などでも『うわー!手ぇ出ぇへんわー!』と言って、ディスカウントショップなんかで見つけた三十円の名前も聞いた事のない格安袋麺で餓えを凌いでいた。
 
というか、ガスも通ってる事が奇跡!みたいな生活だったので、湯を沸かす事すら出来ない日もあり、いやはやどうやって生きていたのか、テメェでもいぶかしむ時期が私には確かにあった。
 
 
それが。
 
それがである。
 
 
〝少し腹が減った〟などという、生命の維持とは無関係なあやふやな理由で、ラーメンをお店で食べているのである。
 
しかも場所は空港。
 
空港内の物価は高い。
 
さっき食べたラーメンは千三百円した。
 
 
千三百円である。
 
 
千三百円と言えば、あの三十円ラーメンが40袋以上買えるのである。
 
 
これは凄い。
 
 
何が凄いって私は先程、そんな計算など微塵もせずに千三百円のラーメンを食った。
 
〝ただ何となく〟千三百円のラーメンを食ったのである。
 
 
これはもうアレ。
 
セレブ。
 
超セレブ。
 
もはや貴族。
 
 
そらそうよ。
 
三十円から千三百円と、金額的においては超ランクアップした事にあわや気づかず、喫煙所にてのんびりとタバコをふかすなんぞ貴族の所業である。
 
で、私は思った。
 
何も考えずに、腹が減った時に飯が食えるってなんと幸せな事であろうかと。
 
 
 
 
と、ここで話を戻す。
 
私が幸せを感じたのは何故か。
 
それは昔、三十円のラーメンもロクに食べる事が出来なかったものが、千三百円のラーメンを好きな時に食べられる様になったからであると思った。
 
そして仮に、三十円のラーメンが不幸で、千三百円のラーメンが幸福とするならば、私は不幸と幸福を同じ分だけ獲得した事にはなるまいか、と思った。
 
 
ちょっと自分でも何を言っているかよく分からんので、わかりやすく説明すると。
 
 
ここに幸福を10持った男が二人いたとする。
 
一人はその幸福が2に減り、一人は15に増えたとする。
 
二人の幸福を比べると幸福の量は全然違うのだが各個人でみると。
 
2に減った男は〝10という幸福な時期〟を甘受していた為、今〝2という不幸な時期〟にある。
 
対して15に増えた男は〝10という不幸な時期〟があった事により、現在〝15という幸福な時期〟にある。
 
 
足し算、引き算ではない。
 
どちらも幸福と不幸の〝割合い〟は各個人で見れば均等である。
 
 
 
うん。
 
説明すればするほど、意味が分からんな。
 
 
 
つまり。
 
つまり私は、少年期に曽祖母が亡くなった時、『俺はなんて可哀想で不幸な少年なんだろう』と思ったのだが、それは〝曽祖母が生きていたという幸福〟があったからこそ成立する不幸である。
 
〝曽祖母が生きていた幸福〟と〝曽祖母が亡くなった不幸〟は均等なのではないか。と、いう事である。
 
 
 
 
各個人の幸福と不幸の総量は違う。
 
全然全く違う。
 
〝幸福〟などというものは主観に基づくものなので、数字で測れるものではないが、それでも無理矢理数字にすると、10持って生まれて300にする人もいれば、1000持って生まれてマイナス50とかになってしまう人もいる。
 
もっと言うと、マイナス50で生まれてマイナス100とかになってしまう人もいる。
 
が、各個人でみた時の〝幸福と不幸の割合い〟は同分量である。
 
その事実こそが『人生の幸福と不幸の数は同じだよ。』等という言葉の正体ではなかろうか。と、思った。
 
 

 
 
なんじゃそれ。
 
テメェで書いておいてなんだが、読み返してみたらなんじゃそれの嵐である。
 
冒頭の、謎のテンションでの大風呂敷広げは一体なんだったのだろうか。
 
 
が、私はなぜか卵を立てたコロンブスの様な、したり顔をしている。
 
 
とても不思議である。
 
まぁたまにはね、こんな日もある。
 
これはきっとあれ。
 
今週は出来が不幸な記事で、過去に幸福な出来の記事があったって事で。
 
うん、そういう事にしよう。
 
 
そんな、思い付きだけの話。