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森猛 伊亮

森猛 伊亮
中学校卒業後、不動産屋や大工、果ては証券屋やボーイなど様々な経験をつみながら、デンジャラスかつクレイジーな生活を経て、2013年より独立。

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変な子も二十歳過ぎれば只の人の話

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十で神童 十五で才子 二十歳過ぎれば只の人。
 
昔の人は、上手いこと言う。
 
天才と呼ばれる子であっても、大人となるにつれ凡庸になるさまは、我々の身近でも良く見かける。
 
天才少女がそのまま成長し、オリンピックという途方もない舞台でメダルを獲得した卓球の愛ちゃんなんぞはとんでもなくエライ。
 
愛ちゃんみたいな例は結構稀で、大多数の天才が大人になるにつれ凡夫として生きてゆく。
 
そうなる理由は様々あるが、私が思うに四つの理由に分類される。
 
 
まず一つが、周りが天才に追いつく。
 
要は、割り算が出来る幼稚園児は天才であるが、小学三年生で出来ても普通であるし、三十歳もとうに過ぎた私が『割り算出来る!』と言ったところで、だから何なん。という話になる。
 
次に、世界が広くなる。
 
いわゆる、井の中の蛙というやつで、三十人のクラスの中では天才的に足が速くても、百人が参加する運動会では三番目位になり、中学校でもっと人数が増えれば順位も落ち、大人になり、77億人の中に晒されれば普通の人となる。
 
そして三つ目が、環境が変わる。
 
少年野球で鳴らした天才野球少年がいたとしても、中学校に野球部が無く、近くに野球チームも無ければ野球を辞めたりする。
 
最後に、努力をしなくなる。
 
天才があるがゆえ、努力なんぞしなくても周りより出来るので、努力をしなくなり、努力する天才の中に埋もれてしまう。
 
まぁ例外はあるかも知らんが、大体理由はこんなところであろう。
 
例えば、スポーツの天才が怪我をしたとかは変則的な三つ目に分類されると思う。
 
 
 
で、ここからが本題である。
 
過日、中学時代からの友人二人と食事に行った。
 
中学時代からの友人といっても、私は人付き合いが尋常じゃないくらい悪いので、二人に会うのは六年振りであった。
 
この六年の間に、少なくとも三回位ドタキャンをした私を誘ってくれる彼らは間違いなく良いヤツらである。
 
男が三人集まれば、大体仕事やらの話になる。
 
やれ会社がどうだ、そっちの業界はどうだとか、話題はほとんど六年前と変わらない。
 
だが今年三十五歳になる私らは、六年前とは違い子育ての話なんぞもした。
 
私には子供はいないが、他の二人には小学生の子供がいるので自然とそうなった。
 
そして酒も進んだ頃、友人の一人の裕輝(仮名)が、子育てにちょっと不安を抱えていると言い出した。
 
 
二人いる子供のうち下の子がちょっと変な子で、普通に育ってくれるか心配であると。
 
 
裕輝曰く、下の男の子は小学二年生になるのだが、兄や他の子と比べると落ち着きが無く、一つの事に集中出来ないという。
 
例えば、みんなでドッチボールをしていても急に飽きて砂場で遊び始めたり、授業参観で授業態度を見ても、一人だけ窓から外を見てボーッとしているらしい。
 
私には子供はいないが、親が子に普通に育って欲しいと願う気持ちは何となく分かる。
 
ゆえに、裕輝が心配になるのもよう分かる。
 
だが、それにしても。
 
それにしても、私は思った。
 
 
『お前が言うかっ』と。
 
 
何しろ裕輝は少年時代、ちょっとどころか、物凄ぇ変な子供であった。
 
彼は小学生の頃、みんなでキックベースをしているさなか、学校にある小さな池に突然飛び込み泳いでいる鯉を次々と地面に放り投げて、翌日先生にボロカスに怒られたという極めてファンキーな伝説を持つ。
 
そんなお前が普通に生きているのに、ドッチボール中に砂場で遊んだくらいで何をいうかと。
 
 
 
そして、私は思った。
 
冒頭の話の通り、天才が普通の人になるのであれば、世の子育てをする親が心配する〝変な子〟もいずれは普通の人になると。
 
天才とは他と比べて突出している事を指すので、いわば良い意味での〝変な子〟という事であり、天才が凡夫になるのなら、変な子も普通になるはずである。
 
なので裕輝と同じ悩みを持つ親御さんや、今、俺ちょっと変なんかな、と心配に思っている子供は安心して大丈夫である。
 
なんてったって、裕輝とかとは比べものにならない位とびっきりの変な子供であったヤツだって、今は普通に生きている。
 
本当である。
 
何を隠そう、とびっきりの変な子供であったヤツとは私の事である。
 
 
 
私は少年期、かなりトリッキーな子供であった。
 
授業中はずっとお昼寝をしており、宿題なんぞはやろうと思った事すらない。
 
かなりバイオレンスな子供で、気に入らない事があるとクラスメイトを平気で殴ったりしていた。
 
 
なんともクレイジーなヤツである。
 
 
そんなクレイジーなヤツに友人なんぞ出来るはずもなく、私の唯一の友達は、近くの池で獲ってきたアメリカザリガニであった。
 
ザリガニが友達というのも中々トリッキーであるが、友達を池で獲ってきたというのは文字に起こすと、もはや狂気すら感じる。
 
奇行はそれだけに留まらず、テスト中に突如として大きな声を出したり、一人自転車で意味も無く数十キロ離れた他府県まで行ったりと無茶苦茶であった。
 
なお、始末がおえない事に、同年代の友達と遊ぶ事が全然楽しくなかったので、友達がいなくとも何ら困る事なく少年期を過ごした。
 
 
テメェでここまで書いてビビったが、文字に起こすとマジもんのサイコパス野郎であった。
 
 
しかしながら、そんな私でも現在普通の人として生きている。
 
普通の定義とはとても難しいが、まぁご飯が食べられて、ゴキゲンで暮らしているという程の意味と捉えて欲しい。
 
 
 
サイコパス少年であった私は、中学生になった途端暴力を振るわなくなった。
 
これは、今考えれば多分環境の変化変わった事が影響しているのではなかろうかと思う。
 
私の生家は中々に世紀末な感じの家庭だったので、日々日常的にバイオレンスが溢れていた。
 
気に入らない事があれば暴れる母、それを止めようとする男達。
 
問題の解決方法が暴力という、極めてファンタジックな家庭であった。
 
中学に上がって家を出た私は、周りに暴力のない生活を送り始めると、途端に暴力というものを嫌悪する様になった。
 
私は心理学者でも何でもないので、暴力を振るわなくなった正確な原因はわからんが、多分、朱に染まれば赤くなる的な事だと思う。
 
家庭は平和なのにバイオレンスな子供は、例えば学校とかのコミュニティの中で暴力が日常的な環境なのかも知らん。
 
なので、その環境さえ変われば恐らくその子は変わる。
 
 
 
で、暴力を振るわなくなった私には徐々に友人が増える。
 
小学生の時分には私だけであった自転車で他府県に行く、というヤツもチラホラ現れて、テメェの行動は奇行では無いと知る。
 
その頃からあまり学校には行かなくなったので、テスト中に大声を出すなどの行為も当然なくなった。
 
というか、私の友人に大人になった今でも定期的に大声を出してしまうというヤツがいる。
 
彼は私と違いふざけて声を上げる訳ではなく、自分自身でも大声を出すことを制御出来ない。
 
ゆえに、電車の中などで突然大声を上げてしまい、周りの乗客から白い目で見られたりすることもある。
 
しかし私から見れば、人の物を盗んだり、人を殴ったりしない彼はとても普通の人である。
 
実際彼は普通に飯を食い、ゴキゲンに家庭を築いている。
 
 
 
そして、ここからは今まで書いてきた事と少し矛盾するのだが、私は多分変な子では無かった。
 
大人となり様々な人と出会う中で、私と同じような少年期を過ごした人達が結構いた。
 
ザリガニが友達だったり、バイオレンスだったり、友達と遊ぶのが楽しくなかったり、不登校であったり。
 
普通とか変とかというのは、絶対的なものでなく相対的なものである。
 
 
全裸で外を歩いていれば変な人であるが、スーツで温泉に浸かるヤツは変態である。
 
 
という事は、いささか強引な理論かも知らんが、同じ様なヤツが自分の他に一人でもいれば、それはもう〝普通〟である。
 
そして、その自分以外の他の一人はこの世のどこかに必ずいる。
 
ドッチボール中に砂遊びするヤツもいるし、授業中に外を眺めているヤツもいるし、池から友達を獲ってくるヤツも必ずいる。
 
七十七億人の中に必ずいる。
 
むしろ一億二千万人の中ですら、ほとんどいる。
 
 
 
変な子供っぽかった私は、今日も元気に飯を食い、ゴキゲンに過ごしている。
 
なので、変な子を持つ親御さんとか、自分が変なんじゃねぇか、と気にしている子供。
 
全く心配しなくとも良い。
 
あなたの子供は普通であるし、お前は全然普通である。
 
 
 
ここまで読み返してみると、なんかクセェ詩人とか、エセ占い師みたいな記事になってしまった。
 
しかしながら、私は心からそう思っている。
 
普通になんてなりたくねぇ、と髪を染め、尾崎やブルーハーツを歌いまくる思春期は物凄ぇ普通の事であるし、久しぶりの電話でテンションが上がって飯を食いに行く約束をしても、前日になると急にめんどくさくなるのも普通である。
 
テメェのお気に入り商品が次々に廃番になるのも、同性に恋をするのも、奇声を上げるのも、みんなみんな、全然全く普通である。
 
子供であれ大人であれ、テメェが普通ではないと感ずると不安になると思う。
 
少なくとも、少年期の私が欲しかった言葉は『みんな違ってみんな良い』とか、『他の人と違っても大丈夫』とかではなかった。
 
少年期の私は『お前普通やで』という、たった一言が欲しかった。
 
 
そんな、凡夫の話。