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森猛 伊亮

森猛 伊亮
中学校卒業後、不動産屋や大工、果ては証券屋やボーイなど様々な経験をつみながら、デンジャラスかつクレイジーな生活を経て、2013年より独立。

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みんながちょっと生きにくい世の中は、実はとても良い世の中なんじゃねーかの話

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テメェが読みたいものを書くという極めてエゴイスティックなコンセプトの元、よく分からないコラムやエッセイをかれこれ十ヵ月に渡り書き続けてきた。
 
先ほど過去の記事を一通り読んでみたのだが、物凄ぇビビった。
 
 
ただ事ではない面白さである。
 
 
まぁテメェで読みたいものを書いているのだから当然であろう。
 
しかし、いくら面白いと言えども最近少しふざけ過ぎた。
 
先週なんぞうんこを漏らした言い訳をひたすら書き続け、二千文字近くに渡るという暴挙をしでかした。
 
 
ちょっとだけ反省している。
 
 
なので、一年の最後くらいは少し真面目な話をしようと思う。
 
 
 
 
私らが子供の頃、大人達は確かに言っていた。
 
『最近世の中が窮屈になり、ちょっと生きにくくなってきた』と。
 
子供の時分は、何言ってんだ大人達。と思っていたが、いざ自分が大人となってみれば、なるほど徐々に、しかし確実に色々な事が窮屈になってきている。
 
 
規制、規制の言いたい事も言えないポイズンな世の中である。
 
 
まるで、二等辺三角形の先端へ徐々に徐々に追いやられている様なこの感じ。
 
この種の息苦しさを感じている人は私だけではあるまい。
 
なお恐ろしい事に、私が子供であった昭和最後期から平成初頭にかけて、当時生きづらくなってきたと嘆いていた大人達がいたという事は、それ以前の昭和中期等から比べると、現代はとてつもなく生きにくい世の中である、という事になる。
 
 
 
なぜこんな事になるのか。
 
叱咤激励がパワハラとなり、褒めた言葉がセクハラとなる。
 
最近では、マタハラやらモラハラなどの言葉もしっかりと定着してきた。
 
上司としてだったり、また例えば取引先の方なんかにも言動に物凄く気を使う。
 
 
はぁ息苦しい。
 
 
と、思ったあなたにとっては物凄ぇ生きにくい世の中になっていっているであろう。
 
が、あなたがそう思うという事は、多分世の中は物凄ぇ良くなっているのだと、私は最近思う様になった。
 
 
 
 
どういう事かというと、例えばパワハラなんて私が若かりし頃、ほとんどプロレスみたいなもんだと認識していた。
 
理不尽なノルマを押し付けてくる課長や、役員が近くにいるとよく分からん事で怒鳴りつけてきて〝僕部下を厳しく教育しています〟アピールをする部長。
 
私は彼らに向けて『いつかお前らぶっ潰してやるからな!』という目で睨みつけ、仕事で成果をあげる上での、ある種のエネルギーに変換していた。
 
パワハラなんて言葉が無かった時代の話であるが、ヒールレスラーである上司がパワハラという技を放ち、それを受けた私がガッツリ受けてブッ潰す。
 
ヒール上司か私のどちらが勝つかは分からんが、ともかくそこまでがワンセットである。と私は勝手に思っていた。
 
なので、私は今でいうパワハラというものを半ば楽しんで受けていた節すらある。
 
というか私の場合、ヒール上司に面と向かって『じゃあお前がやってみろボケェェー!』とブチ切れたこともある。
 
 
めっちゃある。
 
 
だが、世の中にはそういうクレイジーな人ばかりではあるまい。
 
パワハラを受けて、エネルギーに変換するどころか言い返す事も出来ずに心を痛めてしまう人もいる。
 
しかも、心の強度なんてものは胃腸の強度などと等しく人それぞれであるので、二辛のカレーを食べたら腹を下す私と、五辛でもへっちゃらな家内がいるように、周りが〝そんな事で〟と思うようなことでも傷ついてしまう人だって居て当然であると思う。
 
そういう人達にとっては、パワハラというものの定義がどんどん厳しくなってきた近年は、少しずつ生きやすい世の中になっているはずである。
 
他方〝こんな事言ったらパワハラになるのかな〟と気を使って窮屈に感じている私達は、ただ〝気を使えば良い〟というだけなのである。
 
一方が今まで好き放題に振る舞っていたさまを、気を使って多少窮屈な思いをするだけで逆の一方が傷つかなくなる。
 
 
これはもう、とても良い世の中ではなかろうか。
 
 
セクハラとかだっておんなじで、『綺麗な脚してるんやからもっと短いスカート履けばいいのにー』とかいうセクハラオヤジに対して、『バッカじゃないの!そんなこといってる暇があったら仕事しろ!』という余裕のカウンターブローツッコミをかましてギャグに昇華する猛者もいれば、『髪切った?』と課長に聞かれただけで吐き気を催す程の嫌悪感を抱く人もいる。
 
そういう人にとっては『髪切った?』の一言が〝セクハラ〟と定義され規制されれば、嫌悪感を抱がなくて済むし、課長はコミュニケーションの取り方を少し考え直すだけ良い。
 
 
 
 
規制というものは、かけられた方にとっては窮屈に感じるが、その逆に立つものにとっては、とても良い世の中になっているという事である。
 
私よりちょっと若い世代には信じられないかも知らんが、私らが子供の頃大人達は結構普通に飲酒運転をしていた。
 
今でこそそんな事をしていれば、たちまち非国民であるが如く非難が集中するが、今よりずっと罰則も緩く、普通にみんな車で酒を飲みに行っていた。
 
飲酒運転が厳罰化されたとき、大人達は『窮屈な世の中になったなぁ』と嘆いていたが、事故により被害を受けた方々にとってはとても良い世の中になったはずである。
 
 
 
 
そう考えると、私達が昔腹を抱えて笑っていた過激な演出のバラエティ番組なんかも規制されてきたという事は、そういうものが目に入っただけで不快な思いをする人がいて、その人達にとってはとても良いテレビの時代がやってきたのだと思うし、パキパキの喫煙者である私にとっては、どこでもかしこでも喫煙し放題だった時代と比べてほとんど吸う場所もなくなってきた現在は誠に窮屈だが、非喫煙者にとっては良い時代になってきたはずである。
 
無理矢理数字にすると、誰かが100生きやすくてその分誰かが100生きづらい世の中よりも、みんながちょっとずつ20位生きづらくて、80位生きやすい世の中の方が良い世の中なのではなかろうか。
 
これからも、もしかしたら少しずつ少しずつ私やあなたにとっては生きにくい世のと中なっていくやも知らんが、その分誰かにとっては良い世の中になっていると思えば腹もたつまい。
 
 
いやごめん嘘ついた。
 
 
やっぱり人間であるので、テメェにとって何かが制限されたりすると腹も立つのだが、誰かにとって必要な制限であると思えばちょっとは我慢も出来よう。
 
そうした色んな人のちょっとずつの我慢の積み重ねで、この世は少しずつ良くなっていゆくのだと思う。
 
只々生きにくくなったと嘆くよりも、そう考えた方が案外楽に生きられる。
 
 
そんな、タバコが吸える喫茶店を一時間探したけど結局無くてちょっと泣きそうな話。