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森猛 伊亮

森猛 伊亮
中学校卒業後、不動産屋や大工、果ては証券屋やボーイなど様々な経験をつみながら、デンジャラスかつクレイジーな生活を経て、2013年より独立。

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天城や津軽やお七やらが繰り返される理由の話

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若者達よ。
 
そこに座れ。
 
なぜ今年もさゆりが上野発の夜行列車に乗るか教えてやる。
 
 
 
 
過日、若手社員との酒の席で、先だって出演者が発表された今年の紅白歌合戦の話題が出たのだが、その話の中で彼は中々バイオレンスな主張をし始めた。
 
『ヒット曲の出てない演歌歌手とか出なければいいのに!何で出るんか意味がわからないっす!』とか言い出した。
 
 
中々の過激派思想の持ち主である。
 
 
過激派には武力行使と昔から相場は決まっているので、私は彼に串刺し式ラリアットでもかましてやろうかと思ったが、やめておいた。
 
よく考えれば若かりし頃の私もまた、彼の様な過激派思想の持ち主であった。
 
十代の頃など、お気に入りのバンドが出てなかったりすると『演歌なんか辞めちまえ!CD売れてる順に選べ!』とか思っていた。
 
 
いわゆる〝ヒット曲原理主義者〟である。
 
 
CDが売れていない者は紅白に出るなという大変な危険思想を持っていた時期が、私にも確かにあった。
 
しかし、その後のトリッキーな半生により、極めて演歌的な人生を送ってきた私は、今となってはすっかり演歌党のおじさんであり、なぜ演歌歌手が紅白に選出されるかをよーく知っている。
 
 
 
 
という訳で今週の『木曜日の話』では、過去の私や件の若手社員の様に、なぜ紅白にあの演歌が選出されるか理解出来ていない者の為に、その選出理由について解説しようと思う。
 
 
 
 
まず、紅白というものは辞退者を除いたその年で一番ヒットした歌手が選出されなければならない。
 
それは間違いない。
 
 
では、そもそもヒット曲とは何か。
 
 
そこから考えていかなければならない。
 
それは、CDの売上げ枚数であったり、動画投稿サイトの再生回数であったり、という数字ももちろんあるが、要は人々にどれだけその曲が聴かれたかという事であり、どれだけその曲が愛されたかという事である。
 
 
つまり、たくさん聴かれて、たくさん愛された曲がヒット曲なのである。
 
 
例えば、去年石川さゆりが紅白で歌った、というか、二年に一度歌う〝天城越え〟であるが、あれは毎年大ヒット曲である。
 
 
若者には理解出来ないかも知らんが、あれは毎年まごう事なき大ヒット曲である。
 
 
確かに〝天城越え〟のCDは全然売れていないし、動画サイトなどの再生回数も若者達から支持されている歌手と比べると桁違いに少ない。
 
しかしながら、私達おじさんの中では大ヒットしているのである。
 
どういう事か。
 
それを説明する為にはまず、私達おじさんは若者と比べて〝元気〟がないという事を理解して欲しい。
 
 
そう。
おじさん達は、全然元気がないのである。
 
 
元気がないという事は、新しい歌を覚えたりする事が出来ない。
 
 
絶望的に出来ない。
 
 
そんな事をする体力もなければ、記憶力もない。
 
おじさんは、とても弱い生き物なのである。
 
ゆえに、おじさんは知っている曲しか聴かない。
 
という事は、おじさんは何年にも渡って〝天城越え〟を聴き続けており、CDはもう持っているので新たに購入はしない。
 
というか実は、CDを持っていてもおじさんはそのCDを再生して聴く元気すらもない。
 
若者達の中には、おじさんが音楽を聴くのを楽しんでいる姿を見た事がない者も多数いると思うが、それも無理はない。
 
 
実はおじさんは、CDやスマホなどで音楽は聴いていない。
 
 
なので、おじさんが音楽を楽しんでいる姿を見るはずがない。
 
ではおじさん達はどこで音楽を聴いているかというと。
 
それは。
 
ラウンジとかクラブとかスナックとか、そういう夜の街の片隅で、ママやら女の子やらにリクエストして歌ってもらっているのである。
 
 
そして、そのリクエストする曲は決まって演歌や歌謡曲であり、J−POPやヒップホップなどでは決してない。
 
それは、先程述べた『元気がないから新しい歌が覚えられない』という理由の他にも明確な訳がある。
 
 
その訳とは、J−POPなどの歌詞におじさんは共感出来ないからである。
 
 
例えば、去年の紅白に出演した米津玄師が歌った〝Lemon〟であるが、あれはもちろん素晴らしい楽曲であると思う。
 
私も去年初めて聴いた時はすんげぇな、とたまげたものである。
 
が、しかし。
 
いくら素晴らしい楽曲であっても、おじさん達はなかなか歌詞に共感する事が出来ない。
 
 
なぜならば、おじさんは忘れているのである。
 
〝レモンの様にホロ苦い恋〟をしていた時期なんぞは、昔話過ぎて、とうに忘れているのである。
 
 
少なくとも時系列としては。
 
爽やかなレモンの様にホロ苦い恋より、ドロドロとした〝命懸けで天城を越えようとした恋〟とか、〝夜桜吹雪の中に置いてけぼりにしてきた女との恋〟とかの方が近い出来事であり、記憶は鮮明なのである。
 
 
ゆえに、おじさんは演歌に共感する。
 
 
遥か昔のとうに忘れた、〝恋に泣いた話〟なんかより、最近起きた生々しい愛憎劇に共感するのである。
 
歌が愛される理由というのは、古今東西どこをとってみても〝どれだけ共感されるか〟の一点に集約される。
 
言い換えれば、どれだけ感情移入出来るかで歌は愛されるのである。
 
 
ひっそりと夜の街で毎日の様に流れ、思いっきり感情移入される。
 
 
という事は、毎年の様に選ばれるあの曲やあの曲は、間違いなくおじさん達にとってはヒット曲なのである。
 
あの演歌は、決して伊達や酔狂、あるいは伝統が重視されて選出されているのではない。
 
正真正銘真正面からヒットして、選出されているのである。
 
 
 
 
とは言えおじさん、百歩譲っていくらヒット曲だったとしても、毎度毎度同じ歌ばっかりだと飽きてくるやん。
 
と、思ったそこの若者よ。
 
 
甘い。
 
 
君は何も分かっていない。
 
確かにメロディや歌詞など、ぱっと見は毎年同じに見えるやも知らん。
 
が、しかし。
 
君は、石川さゆりのあのサビ終わりのキメ顔をちゃんと見た事があるか。
 
坂本冬美のサビ中の握り拳をキチンと見た事があるか。
 
いや、見ていないはずだ。
 
見ていれば、決して飽きるはずなどないのである。
 
 
なぜならば、彼女達は歌詞やメロディこそ同じであるが毎回新曲を歌っているのである。
 
 
意味が分からんと思うのでもう少し説明すると、例えば石川さゆりは二年前の紅白で、それはそれは見事な〝津軽海峡冬景色〟を歌い上げた。
 
というより、あれはほとんど上野発の夜行列車を降りて津軽に降り立っていた。
 
いや実際にはNHKホールで歌っていただけなのであるが、少なくとも気持ちの上では津軽の地でカモメを見つめながら泣いていたのである。
 
そして、今年もまた一から上野発の夜行列車に乗って津軽海峡で泣くのである。
 
一回一回歌うたんびに、津軽海峡からの連絡船に乗りながら泣くのである。
 
 
でないと、サビ終わりにあんな顔は出来ないのである。
 
 
それは何も石川さゆりだけではなく、坂本冬美が〝夜桜お七〟を歌う時には毎回赤い鼻緒がプツリと切れるし、氷川きよしが〝ズンドコ節〟を歌うときは毎回ズンドコしているのである。
 
 
毎回一からやる。
 
 
即ち、毎回歌うたんびに新曲、と言っても過言ではないのである。
 
 
 
 
さて、ここまで書けば、どれだけ過激派思想を持っている若者達にも、なぜあの演歌やあの演歌が毎度繰り返し紅白に選出されるかを理解してもらえたと思う。
 
毎年新曲のヒット曲を飛ばしているという事を踏まえれば、当然の事なのである。
 
分かったか若者達よ。
 
 
 
 
とは言え、私はポップスやヒップホップなどが、演歌や歌謡曲に劣っていると言いたい訳ではない。
 
全然そういう事ではない。
 
もちろん、AKBやらジャニーズやらその他にも素晴らしい楽曲を作る若者達は多数いるのは知っている。
 
 
しかし、紅白はみんなのものである。
 
 
若者の為だけにあるものではないし、もちろんおじさん達の為だけにある訳でもない。
 
なので、決してCDが売れていなくとも、おじさん達の中には演歌を観たい人もいるんだよ、と理解して頂けると幸いでなのである。
 
つまりは、今年もみんなで紅白を楽しもうぜって事である。
 
後、今年もみんなで山崎蝶野ビンタと、田中タイキックも楽しもうぜっていう事でもある。
 
 
そんな、年の瀬の話。