ここで会ったが木曜日

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森猛 伊亮

森猛 伊亮
中学校卒業後、不動産屋や大工、果ては証券屋やボーイなど様々な経験をつみながら、デンジャラスかつクレイジーな生活を経て、2013年より独立。

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読者と私と日食の話

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【この記事は約6分で読めます】

 

過日、北海道へ出張に向かう飛行機の機中で、私はボロボロと止めどない涙を流し、ズルズルと止めどない鼻水を垂らしていた。

 

別にブタクサの花粉にやられていた訳ではない。

 

その時読んでいた小説に登場する子供があまりにも不憫で、私は顔がグチャグチャになるほど泣いていたのである。

 

 

 

自宅やホテルの室内ならば声を出して泣いているところだが、そこは飛行機の機中である。

 

絶対に静かにしなければならない場所であり、嗚咽漏らして泣く訳にはいかなかった。

 

だが物語が佳境に入るにつれ、どうしたって涙が出てくる。

 

 

静かに泣くというのは物凄ぇ苦しい。

 

 

笑ってはいけない場面に遭遇すると、ちょっとした事で吹き出してしまうのと同じで、泣いてはいけない場面では、なぜかは知らんが悲しさが増幅する。

 

で、私の場合涙を堪えようとすると行き場を失った涙が鼻から垂れてくるらしく、ダラダラと鼻水が垂れてくる。

 

しかもこの時私の隣には ボブサップみたいな黒人男性が座っており、大きな音をたてて何度も鼻をかもうものなら、なんだか殴られそうな気がした。

 

 

ほとんど呼吸困難である。

 

 

そんなに苦しいのなら読むのをやめれば良さそうなものだが、残りは数ページ、ここでやめれば生殺しである。

 

私はティッシュを鼻に詰め、無音で涙を流しながら最後まで読み終えそっと本を閉じた。

 

しかし、まだ涙は止まらない。

 

頭の中では、いつまでも小説の中の少年が父の名を呼び続けているのである。

 

 

 

鼻にティッシュを詰めたまま、涙を流し続ける三十三歳の成人男性。

 

 

 

はたから見れば異様な光景である。

 

隣のボブサップは、あまりにも泣く私をどうやら心配してくれたらしく、私の肩に手をかけてなにやら慰めてくれようとした。

 

花の中卒である私は外国語を全く理解しないが、多分、大丈夫か?みたいな事を小声で言ってくれたのだと思う。

 

中々優しいやつであるので、私は得意のジェスチャーで誤解を解き、ボブサップにお礼の酢昆布をあげた。

 

ボブサップが酢昆布を食べ物と認識出来きたかは分からんが、満面の笑みで喜んでいたので、多分お礼として成立したのであろう。

 

 

 

で、彼のよく分からん励ましのかいもあって、私は小説の世界から抜け出し泣き止んだのだが、正気に戻った瞬間、私は自分自信にアホらしくなり呆れた。

 

別に、見知らぬ外国人に泣き姿を励まされた事に呆れたのではない。

 

私は大変出来が悪い人間なので、よく知らない人から励まされるなどままある事なので、そんな事では今更アホらしくは思わない。

 

 

では、私は自分の何に呆れたかというと、よーく考えてみれば私がこの小説を読んで号泣するのは今年に入って五度目である。

 

そしてもっと言うと、私がこの本を購入したのは五年前であり、単純計算でも計三十回以上はこの本を読み、その度にむせび泣いているのである。

 

ということは、ストーリーも登場人物も、そして物語のオチさえもしっかりと把握しているにも関わらず、その度にむせび泣いているのである。

 

なぜこんな事になるのか。

 

 

 

 

さて、本題はここからである。

 

私は自宅に結構な量の小説を所有している。

 

別にインテリな訳ではなく、すんげぇ自分勝手な性格なので、娯楽の時間を消費する時、向こうペースで時間が進む映像作品よりも、テメェの都合で読める小説を好むからである。

 

数を数えた事はないが、六畳の部屋が半分埋まる位はある。

 

そして、私は年に三百冊位の本を読む。

 

全く読まない日もあるが仕事柄出張が多く、新幹線や飛行機の中で一日二、三冊読む事もあるので、そういう事になる。

 

しかし、三百冊は読んでも決して三百作品は読まない。

 

むしろ、百作品も読まない。

 

要するに同じ本を何度も何度も読むのである。

 

そしてもっと言うと、年間に私が読む本を書いている作家は全員合わせても十五人位である。

 

更に、年に三回以上読んだ本の作家は五人だけ。

 

同じ作家が書いた本を繰り返し読み、それ以外の作家が書いた本は一回しか読まずに本棚にずっと眠ることが大半なのである。

 

 

すんげぇもったいない。

 

 

だがいくらもったいなくても、娯楽の時間に読みたくもないものを読むのは本末転倒であるので、いつもこういう事態に陥る。

 

 

 

 

なぜこんな事になるかを一言で言ってしまえば〝私のなんとなくの好き嫌い〟という事になるのであろうが、更に突き詰めると。

 

世の中に無数にある小説の中から、私が奇跡的に出会った作品の中で、私が好む小説を書く人は、その他にも私の好きな作品を書いている可能性が高いからなのだと思う。

 

良い作品とか悪い作品とかではなくて私が好きな作品、言い換えると書き手と読み手がシンクロする作品である。

 

これは何も小説だけではなく、音楽や漫画などの娯楽作品全般に言える。

 

 

 

 

しかも、小説であれ音楽であれ作った人が同じでも、作られた時期によっても何度も繰り返して楽しむものと、そうでないものに分かれる。

 

ある作家が90年代に書いた作品は、全部繰り返し何度も読むが、2000年以降に書いたものは一回で読まなくなってしまったりする。

 

そらそうよ。

 

作る側の人間だって日々考えは変わってゆくし、作りたいものも変わってゆく。

 

 

 

そしてもっともっと言うと、読み手の私自身が読む時期によっても、繰り返し読む物とそうでない物に分かれる。

 

例えば、15才の私は尾崎豊の『15の夜』を聴きまくっていた。

 

別に盗んだバイクで走り出していた訳ではないが、自由を求めて尾崎とシンクロしていた。

 

が、今の私は『15の夜』を全く聞かない。

 

これは私が大人になり、〝自由を求めなくても自由な状態にある〟という私自身の変化のせいでもあり、〝窓ガラス割るとかダッセ〟という時代の変化のせいでもある。

 

 

 

 

そう考えた時、私は読み手と書き手がシンクロするという事は、まるで日食の様だな、とガラにもなくロマンチックな事を思った。

 

宇宙に星がたくさんある中で、たまたま隣同士にいた地球と月。

 

この広い世界の中で、たまたま出会った書き手と読み手。

 

互いは常に動いており、太陽だって動いている。

 

そして何十年に一度、ここしか無い。というベストポジションに太陽、月、地球が並んだ時に、日食は発生し、書き手と読み手はシンクロする。

 

正に、天文学的な確率である。

 

そして、超ロマンチックである。

 

 

 

 

翻って、今度は書き手である私の話をする。

 

当サイト『ここで会ったが木曜日』は、開設してから半年以上の時が過ぎた。

 

私は毎週木曜日、ここによく分からないコラムやエッセイを書いている。

 

こういう事をやっていると、読者の方から下記の様なコメントを頂く事があった。

 

 

 

『ブログがアクセスされるには、書かれている情報か書いている人かのどちらかに魅力がある場合になるようですが、ここは両方のようです。』

 

『感動して旦那にも読ませて、二人で震えた。天才。』

 

 

 

嬉しい。

そこはかとなく嬉しい。

 

こういったことは、一般的に『お世辞』あるいは『社交辞令』というらしいが、私は大変素直な性格をしているので、目一杯額面通りに受け取る。

 

超嬉しい。

 

正に、日食が起こった瞬間である。

 

これからも日食起こしまくりてぇー!と思う。

 

が、多分それは意図的には出来ない。

 

 

 

だって天文学的に低い確率だから。

 

 

 

たとえ私が、自分で思う〝超絶良い記事〟を書いたとしても、その記事を読む人にとって良い記事とは限らんし、そもそもその記事に辿り着く可能性だって天文学的に低い。

 

アクセス解析によると、当サイトには毎週100人位の方がリピーターとして訪れて頂いている。

 

大変ありがたい。

 

そしてそういう方達は、多分この記事も最後まで読んで下さるであろう。

 

 

が、一方で、最近どういう仕組みかは分からんが、スマートニュースというアプリの『あなたへのおススメ』という欄に当サイトの記事が掲載されている。

 

あれ?俺スマートニュースに週間連載持ってたっけ?と、錯覚する位毎週掲載される。

 

そして、そこからくる数十名から数百人の新規訪問者の方は、リピーターの読者の方とは違い、『読むのに6分もかかるのかよ!』と、記事を開いてすぐにブラウザバックをするかも知らんし、この文に辿り着くまでに途中で飽きて、この文を読んでいない可能性も非常に高い。

 

全然シンクロしなかった結果である。

 

更に、たとえ最後まで読んでもらったとしてもシンクロしなければ、多分二度とこのサイトには訪れないであろうと思う。

 

そらそうよ。

 

一曲聴いて、あんま好きじゃないな、と思ったミュージシャンの曲は中々聞かない。

 

 

 

 

以上を踏まえると、筆者・読者日食というのは起こる確率が相当に低い。

 

いくら書き手が『読者の為に!』と気合いを入れて書いても、ほとんど天文学的に日食は発生しない。

 

 

そらそうよ。

 

 

いやむしろ、そんな押し付けがましいもんは誰も受け取りたくないし、なんか狙ってる感が透けて見えるはずである。

 

更に、『読者の為に!』と思っているという事は、自分が読みたい物とは乖離しているという事である。

 

これはあんまり楽しくない。

 

 

 

 

しかし、私は最近絶対に日食を起こす方法を発見した。

 

というか、前から気付かぬ内にやっていた。

 

セルフ日食である。

 

テメェで書いたものをテメェで読んで、腹を抱えて笑い、涙する。

 

これは楽しい。

 

どうせ、日食が起こるのが天文学的に低い確率なのならば、せめて自分だけでも楽しめれば儲けもんである。と、私は思う。

 

 

 

 

さて、ここまで読んでくれた読者の皆さん。

 

本当にありがとうございます。

 

すんげぇ嬉しい。

 

物を作る人間にとって一番悲しい事は、作品を批判される事ではなく、そもそも作ったものが消費されない事なのだと、私は思う。

 

一生懸命に作った料理を『マズイ』と言われるより、食べる人がいなくて捨てる方が悲しいに決まっている。

 

なので、この記事をここまで読んで頂いたという事に、私は皆さんがちょっと引く位に喜んでいる。

 

超喜んでいる。

 

私はこれからも変わらず、テメェが好きな事を好きなだけ書いていきますので、万が一あなたと日食が起きた時は。

 

万が一そんな事が起こったその時は、どうぞまたこの場所に来て、何かを読んでやって下さい。

 

 

 

 

そんな、自分勝手な話。